夕暮れ時、薄暗くなりかけた街の景色が、僕たち兄妹を包んでいた。いつもより少し肌寒い風が吹く中、妹の手は僕の腕にしっかりとしがみついている。妹、玲奈は僕を見上げて、どこか不安そうな表情を浮かべていたが、同時にその瞳の奥には期待が宿っていた。
「本当に、逃げてもいいの?」
玲奈の声は小さく、震えていた。僕たちは家から少し離れた公園のベンチに座って、これからどうするかを話していた。
「いいんだよ、玲奈。俺が一緒にいるから、何も心配しなくていい」
僕は優しく玲奈の肩に手を置いた。その瞬間、彼女の肩が小さく震えたのが分かった。
「でも…もし見つかったら、怒られるよね。お母さんも、お父さんも…」
玲奈は心配そうに眉をひそめる。
「大丈夫だよ。俺たちはもう十分頑張ったんだから、少しの間、誰にも邪魔されずに自由になってもいいと思うんだ。今日は、ふたりで好きなところに行こう。誰にも言わない秘密の冒険さ」
僕は少し笑顔を見せて、玲奈を安心させようとした。
「秘密の冒険…か」
玲奈はその言葉を反芻するように、口元にかすかな笑みを浮かべた。昔、よく一緒に秘密基地を作ったり、家の裏の小道で冒険ごっこをしたりしたことを思い出しているのだろう。
夕焼けが、街並みをオレンジ色に染めていく。遠くから聞こえる自転車の音や、夕方のチャイムの音が、どこか現実感を薄れさせるようだった。まるで、僕たちだけがこの時間から切り離されているかのように感じた。
「ねえ、お兄ちゃん、私たち、どこに行くの?」
玲奈が静かに尋ねてきた。
「そうだな…秘密の場所に行こうか。昔、よく行ったあの川沿いの道、覚えてる?」
僕は少し懐かしそうに言った。川沿いの細い道は、僕たち兄妹が小さい頃、よく二人だけで歩いた場所だ。人通りが少なく、静かで、まるで自分たちの世界のように感じていた。
「うん、覚えてる。あそこ、まだあるのかな?」
玲奈の声には少し期待が混じっていた。
「もちろんさ。あの場所は変わらないよ。行ってみよう」
僕は立ち上がって、玲奈の手を取った。彼女は少し驚いたようだったが、すぐにその手を握り返してきた。その手の温かさが、どこか懐かしく、そして心強かった。
僕たちは歩き出した。川沿いの道へと向かって、夕焼けがだんだんと沈んでいく中、二人きりの静かな時間が続いていた。周りの音も、冷たい風も、どこか遠く感じる。
「お兄ちゃん、私さ…今、すごく安心してる。お兄ちゃんが一緒だと、何も怖くない気がするんだ」
玲奈が小さな声で呟くように言った。
「俺もだよ、玲奈。お前がいると、なんか力が湧いてくるんだ」
僕も少し笑って答えた。ふたりで過ごすこの時間が、どれだけ特別なものか、僕にはわかっていた。今この瞬間だけ、世界がふたりのためにあるような気がした。
やがて、川沿いの道にたどり着いた。昔と変わらないその風景に、僕たちは足を止めた。水面が夕陽を反射して、輝いている。川の音が静かに響き、周りには誰もいない。
「ここ、本当に懐かしいね」
玲奈が静かに言った。
「そうだな。昔、よくここで石を投げたり、虫を捕まえたりしてたよな」
僕は笑いながら、彼女と一緒にいた幼い頃の記憶を思い出していた。
「お兄ちゃん、私、あの頃みたいに自由になりたいな。大人になるのって、こんなに窮屈なんだね」
玲奈は少し寂しそうに呟いた。
「そうだな…大人になるって、確かに難しいよ。でも、こうしてふたりでいれば、いつだって自由になれるさ。誰にも邪魔されない、俺たちだけの場所があれば」
僕は玲奈の肩を抱き寄せ、優しく囁いた。
玲奈はその言葉に安心したのか、僕の肩に頭を預けてきた。彼女の体温が伝わってきて、僕はどこか胸が締め付けられるような気持ちになった。玲奈を守りたいという気持ちが、強く込み上げてきた。
「お兄ちゃん、ずっと一緒にいてくれる?」
玲奈が弱々しい声で言った。
「もちろん。俺は玲奈のそばにいるよ。ずっと、一緒に」
僕は真剣な声で答えた。玲奈の髪に触れると、彼女は少しだけ微笑んで、また静かに目を閉じた。
夕陽が完全に沈み、辺りは薄暗くなっていた。川の音が優しく響く中、僕たちはしばらく何も言わずにその場に立っていた。この場所が、ふたりだけの逃避行の終わりであり、始まりでもあるような気がしていた。
「帰ろうか」
僕がそう言うと、玲奈は小さく頷いた。
「うん。でも、またここに来ようね。ふたりだけの秘密の場所だから」
玲奈のその言葉に、僕は微笑んで頷いた。
「そうだな。また、いつでも来よう」
僕は玲奈の手をしっかりと握り、二人でゆっくりと家へと歩き出した。
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